まず初めに関西福祉大学サッカー部に関わる全ての皆様、いつも支援やサポートしていただきありがとうございます。
2023度Bチームの主将をさせていただいた青木啓真と申します。

「楽」
私がサッカーを始めたきっかけとなったのが兄が小学校のチームに入り練習しているのを幼稚園生の私はそばで練習を見ていた。練習後にコーチにボールを蹴ってもらい楽しく自分もサッカーをしたいと思い小学校へ上がると同時にサッカーチームに入団した。木曜日を除く全ての曜日で練習があり1年生の私はボールを追いかけるのが楽しい毎日だった。友達にも恵まれ仲の良い友達をサッカーに誘うと体験で練習に一緒に来てくれ楽しい日々を送っていた。しかし、楽しい日々も一瞬で悪夢の日へと変わった。2年生へ進級した時、股関節に痛みを感じる日々が続いた。私は成長が早い方だったから親に「成長痛じゃない?」と言われ痛いながらにボールを蹴る日々を過ごした。だが痛みが和らぐどころか痛さが日に日に増していき病院へ行った。そこで言われた言葉が「ペルテス病」。股関節の骨が崩れていく病気。2年生の私は意味がよくわかっていなかった。しかしすぐ病院で車椅子に乗せられ足に負荷をかけてはいけないと大袈裟のように処置されているのを今でも鮮明に覚えている。病院を変えて精密検査しても同じことを言われそこの医師に言われた。「手術をしよう」。その一言で私の頭の中は真っ白になった。だが手術をするとまたあの無邪気にサッカーをしていた頃に戻れるそう信じ手術を受けることにした。手術は成功し日々痛みに耐えながらリハビリを続けた。そして小学校5年生の頃医師に「徐々にサッカーしていいよ」その言葉はとても嬉しかった。無邪気にサッカーしていた頃から3年弱サッカーができない日々が続いたがやっと解放され動ける。やっとサッカーができると感じた。だがその3年間はただの3年間ではなかった。兄のサッカーを見るため毎週のように試合会場へ行きベンチに入りサッカーを誰よりも誰よりも目で観て観察した。その時間は誰よりも貴重な時間となった。

「試練」
そしてまたしてもどん底に落ちるほどの絶望を経験することになる。
リビングで兄といる時一本の電話が鳴った。
「父の容態が危ない」母からの電話で私は何も考えれなくなった。父が病院へ通院してることや入院してることは知っていたが病名や症状がどんなものかは知らなかった。そして父が小学5年生の頃に他界した。葬式の次の日が県大会という小学生の私からすると大きな大会であった。どん底にいる私は「大会に行かない方がいい」、「モチベーションがないまま行っても活躍できない」そう思っていたが入院した時や試合の時どれだけ支えてもらったかを考えると試合に行って活躍した姿を父に見てもらいたい。その思いもだんだん強くなり試合に行くことにした。結果は良くなかったが試合に行って全力でプレーする姿を父に見せれてよかった。

「目標へ」
中学へ上がりクラブチームへ行く選択もあったが中学の部活動に入ることにした。理由ただ一つ。兄を超えること。私が小学6年の頃兄は中学3年で部活のサッカーをしていた。兄たちが全国大会へ出場したのを目の当たりにし私も出場したい、超えたいと思い部活を選んだ。小学生の頃は手術もあり地区の選抜に選ばれるのが限界だった私は中学へ上がり兵庫県の選抜に3年間入ることができた。中学2年の時には関西選抜の選考会まで行くことができた。周りはクラブチームの選手がほとんどで中体連の私がこんなところにいていいのかと思った。県の選抜や関西選抜の選考会で学べることはたくさんあり周りの影響力が強く自分も自チームを引っ張っていく存在にならないといけないと思い中学の練習をしていた。しかし、中学1.2年生の頃は試合に出れることはできたがチームを全国大会へ導ける選手ではなかった。中学3年になりチームのキャプテンをすることになった。チーム目標は兵庫県チャンピオンになることだ。中学3年の新人戦で県大会まで勝ち上がり準決勝まで駒を進めた。ペナルティーエリアの中で相手のスパイクが絡まり私は転けPKをもらうことができた。しかしそれと同時に鎖骨に大きな痛みがはしる。一歩も動けないまま担架で運ばれる。ピッチを後にすると救急車の音が聞こえた。そしてそれに乗って病院へ行った。診断は鎖骨骨折。病院から帰ってきて試合結果を聞くと1-2で逆転負け。あのPKを成功させた後2点決められ負ける。あと一歩のところだった。チームで掲げた目標が手のひらに乗っていたのに私の怪我のせいでこぼれ落ちた。とても悔しかった。絶対に最後の大会で兵庫県のチャンピオンになると改めて思った。たくさん練習に励んだ。それして最後の大会もう一度チームの目標を確認し絶対に兵庫県チャンピオンになると意気込んで大会に臨んだ。チームは順調に勝ち上がり県大会の1回戦を突破し2回戦へ進む。その相手は新人戦で私のせいで負けた相手だった。どうしても勝ちたい、勝たなければならなかった。そしてその相手に勝ち勢いに乗り県大会の決勝まで駒を進めた。決勝まで行くと近畿大会の出場が決まった。でも、目標は兵庫県チャンピオン。円陣で目標を確認し試合に臨み、見事兵庫県チャンピオンになることができた。あれほどどん底を経験した私はどれほど嬉しかったことだろうか。やっぱりサッカーは楽しいと思えた瞬間でもあった。
そして私たちは近畿大会へ出場する。新たな目標を掲げた。それは近畿の優勝旗を持って帰る=近畿チャンピオンになることだ。簡単な試合は一つもなく接戦を物にし勝ち進み近畿大会の決勝まで進むことができた。そしてついに近畿のチャンピオンにもなることができた。私たちの地域では近畿の優勝をしたのは私たちが初めてと聞きとても嬉しいかった。そして私の目標してしてた兄を超えるところまできた。
全国大会は楽しもうそう言い聞かせて一回戦を突破することができた。兄を超えることができた。2回戦は惜しくも敗れベスト32で全国大会を去ることになった。しかしとても充実した中学生活になった。

「さらなる高みへ」
高校は名門の滝川第二へもう一度全国大会に行きたく進学した。だがそう簡単なことではなかった。1年生の頃に全国大会を経験する。全国大会のメンバーには入ることができたが怪我をし出場はすることができなかった。高2.3では県の決勝すら行くことができなかった。とても悔しかった。実力不足だった。負けた時は悔しがるがキャプテンでもなくチームの1人だった私は他人のせいにしていたに違いない。私にベクトルを向けず他人に向けていた。だから高校ではあまり伸びず悩む時期が長かった。高校3年の時、次の進路を考えていた。高校時代全国大会を経験してない私は大学でサッカーを続けるべきなのか、ここで後悔なくやり切ったと言えるのかと考える進路選びだった。だが私はやっぱり大学でいい結果を残したいと思い関西福祉大学を選んだ。

「もう一度」
もう一度目標へと意気込んでカテゴリー分けを聞くと一番下のカテゴリーだった。1回生の間は全力で取り組もうと思い日々練習をした。リーグが始まり結果を残し1年で一つ上のカテゴリーへ上がり次の年でもカテゴリーを上げることができ3回次にBチームまで上がることができた。そして4回生へ上がる時「キャプテンをしてくれないか」と前年度のキャプテンに言われすぐに「やります」とは言えなかった。技術が低くチームを引っ張って行く自信がなかったのだ。私が1回生から見てきたキャプテンはチームを引っ張る力がある人で発言力がある人だった。そんな人に憧れていた自分もいた。キャプテンになると自分の中で変化があり能力が身につくと思っていた。そしてキャプテンを引き受けた。それが一番悪かったことだ。技術に自信がないから他人に強く言えない、引っ張っていけない。チームは仲良しクラブみたいな強く言えない環境へなっていった。Bチームの目標はIリーグ決勝トーナメントへ行くことだった。しかし、キャプテンが引っ張っていないチームは強くはならなかった。単純なものではなかった。そして最後の年キャプテンをして目標を達成できず、サッカー人生を終えた。

結果このブログで何が言いたかったのか。
怪我をたくさんするスポーツであり挫折することもあるが絶対に這い上がる気持ちを忘れずにやっていくこと。
そして目標に対し引っ張っていくリーダーの軸がしっかりとしているとチームはいい方向にへ向かっていく。
自分の中で全力で取り組んで失敗もたくさんしながら成長してきた。だからこの人生を選んで後悔はない。サッカーに出会えて本当に良かった。サッカーを通じてたくさんの人たちと出会えて関われてよかった。ありがとう。